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平戸簡易裁判所 昭和32年(ろ)93号 判決

被告人 木下[禾告]

大一五・一〇・二〇生 土木技術吏員

主文

被告人は無罪。

理由

一、本件公訴事実は、

被告人は、長崎県技術吏員であつて、長崎県北松浦郡世知原町北川内免に於ける県直営工事である北川内川砂防工事の現場工事主任として、労働者の指揮・監督・危険防止等の業務に従事中、

第一、昭和三十二年二月末頃労働者をして手押車を用いて、生コンクリートを運搬せしむる用の為、北川内川を南北に横断して、全長五二米、高さ一〇米乃至二米、幅一・三〇米、離合箇所のみ一・五〇米の架設通路を造つたが、同年三月五日に至る迄、架設通路中北端より一六・九〇米附近の墜落の危険ある箇所に、墜落防止の為の高さ七五糎以上丈夫な手すりを設けなかつた。(労働基準法第四三条、第四五条、第一一九条、労働安全衛生規則第一〇三条違反)

第二、同年三月五日人夫渡辺浩等をして、前記架設通路上を手押車にて生コンクリートを運搬させたが、前記墜落の危険防止の為の手すりを設けなかつた業務上の不注意に因り、同日午前十一時三十分頃、架設通路上北側より一六・九〇米の箇所に北面して空手押車を持つて北方より進行して来る田代守則の生コンクリートを容れた手押車を、離合する為待つて居つた渡辺浩の空車に田代の車が接触し、其の動揺により渡辺浩を手押車もろ共墜落せしめ、因て頭部に受傷同日午後〇時四十分頃病院に於て死亡するに至らしめた。(刑法第二一一条)

と謂うのが其の要旨である。

一、本案の審按に入るに先だち、明らかにしなければならないことは公訴摘示の工事は、本件が当裁判所に起訴される以前、夙に完成して総ての設備は撤去され、当裁判所が現場に臨んだ時は、本件事故当時の状況を明らかにすべき何等の痕跡を留めず、親しく之を現認するを得なかつた。それで当裁判所で取調べた書証・人証に依つて当時の状況を机上に再現せしむるの他ない次第であつて、而も本件事故発生直後現場のその侭であつた当時に行はれた司法警察員の実況見分調書や、関係人の供述調書は本件公訴事実を判断する上に於て、詳細・明確を些か欠くものがあることは遺憾とするところである。

一、依つて、審按を遂ぐるに、当裁判所の見解・判断は次の通りである。

第一、公訴事実の冒頭に掲ぐる被告人の本件工事に関する職責については争のないところである。

第二、工事及其の行われた場所は、

長崎県北松浦郡世知原町北川内免内佐々川支流北川内砂防堰堤築造の長崎県直営工場現場であつた。

工事は主として、佐々川支流にセメントで堅固な砂防の為の堰堤を築造するのであつて、着工は昭和三十年十月中、同三十二年三月末を期して完成させる予定であつて、予定通り完成した。

工事に稼働した人夫は一日三十名内外であつた。

第三、本件事故発生当時に於ける工事現場の状況は、司法警察員作成の実況見分調書、司法巡査の事故発生についてと題する報告書、手押車を接触せしめた田代守則の供述、事故発生当時其の附近に居合せた労務者、技術吏員九十九明、労働基準監督署員辻正人等の供述及被告人の供述等を綜合すると、

川の右岸一段と高所に工事々務所、其の前方にコンクリート・ミツキサーを設置し、此処で造つた生コンクリートを川を横ぎつて向側山林の麓左岸袖の打設工事に運ぶ為長さ約五二米の仮橋を設け、特殊な手押車(労務者はネコと呼んでいた)に生コンクリートを容れ、当時之を三台若しくは二台使用して此の仮橋上を往復運搬して居つた。

仮橋(公訴に謂う架設通路)の構造は、両側地面に丸太を約二米おきに立てて支柱と為し、之に杉檜の丸太を組合せて固定し其の上に一寸板を並べて通路とし、ミツキサーから約六米の箇所より┐型に屈折して、川原の上を通り幅約七米の河流上を横ぎり、対岸山麓に達し、全長約五二米勾配なく、橋の幅は一・三〇米位であつたことは明らかである。地面よりの高さについては正確に知るべき資料を欠くが、事故発生の箇所(ミツキサーより約一六・九〇米の処)に於て、或は一・四〇米と謂い、或は一方の側は二・五〇米、他の側二・九五米と謂うものもあるが、二・四〇米位と認むるのが相当であろう。尚ミツキサーから川に至る迄の橋の下は砂礫土の地面であつた。

而して、仮橋の両袖には手押車の折返しや、待合せの為に橋幅を広くしてあり、橋の略中央部には車のすれちがい(待ち合せ)の為に、長さ一間、幅約四〇糎の板の橋の両側に附設し、此の部分に於て橋の幅は一・七〇米又は一・八〇米と為つて居つた(待ち合せの箇所)。

橋の両側には事故発生当時に於ては、川を越える部分には手すりを設けてあつた様であるが、其の余の部分特に事故の発生した箇所には両側共手すりを設けてなかつた(公訴事実に謂う通り)。たゞ橋の支柱丸太が両側に約二米間隔に立つて居つた。

尚、事故発生時迄当日約三時間に及び数十回継続して生コンクリートを運んだ(証人田代守則の供述)ことよりして、橋は相当堅固に作られて居たことが窺われる。

手押車の形状は、

実況見分調書添付の写真の通りの形状であつて、被告人の供述に依れば、鉄製高さ七八糎、横幅(車軸の外尖端間)七二糎、縦幅(上部に於て)九一糎、車を押したり引張る為のハンドル(仮称)長さ四八糎、車と略同幅のものを取付けてある、空車の重さ六五瓩、生コンクリートを充満した総重量は約二一五瓩であつた様である。

当裁判所に顕出された証拠を取調べた結果認められるる状況は以上摘示の通りである。

第四、次に本件事故発生時に於ける作業状況は、

証人田代守則の供述、同人の司法警察員に対する供述、証人九十九明の供述、被告人の当法廷に於ける供述を綜合するに、対岸の袖のコンクリート打設工事に投入する生コンクリート(ミツキサーで造つた)を、手押車に容れ、労務者一人で一台の車を手で押して、仮橋上を運び往復するのであつて、一回運んで帰つて来て、次の生コンクリートの出来上るのを暫く待つという有様であつた。此の作業は事故発生当日早朝開始したもので、当初は手押車三台(労務者田代、久田、谷岡の三名)を使用作業して居つたが、事故発生時(午前十一時三十分頃)には、車は二台、田代守則と渡辺浩の二名のみ稼働して居つた。(田代守則の供述)ミツキサーが一回に造る生コンクリートの量は車二台分であつた様である。

尚此の作業は当日開始後本件事故発生時迄三時間余にわたり労務者三名により数十回事故なく継続されたことが窺われる。

次に証人九十九明、同田代守則の供述、各司法警察員に対する供述及被告人の供述に依れば、被告人は其の頃他に二・三箇所自己の責任の下に工事を施行して居り、本件工事場に常時駐在することを許さざる事情があり、また本件工事は施工上常時自ら現場に在るを必要としない為技術面の監督の補助として九十九明を置き、九十九明は被告人の指揮の下に作業現場に在つて直接作業の指揮・監督に当り、別に人夫頭の西某をして同じく被告人の監督の下に直接作業人夫の作業割当・指揮監督に当らしめて居つたこと及当日生コンクリート運びの作業には田代守則、三田力也、谷岡梅則の三名が右西某により指名され作業に従事したが、中途久田は作業をやめ、更に渡辺は谷岡に代り、事故発生時には田代と渡辺の二人が従事して居つた、而して渡辺は当日玉石運びの作業に従事することを右西某より指命されて居つたに拘らず、途中監督には無断で谷岡と代つて此の作業に加わつたものであることが認められると共に、生コンクリート運搬作業中手押車の離合は待合せ場所以外の橋上では為さない様予め監督から指示を与えられて居つたことが認められる。

第五、渡辺浩が仮橋上から墜落受傷した模様については、田代守則が之を目撃した以外に之を詳かにし得る資料なく、同人の供述に依れば、渡辺浩はミツキサーの在る橋の端から一六・九〇米の橋上、ミツキサーに向つて右側の橋の支柱丸太に背をもたせ、顔をミツキサーの方向に向け、空の手押車を前にし左手でハンドルを握り呆然立つて居つた、田代守則は生コンクリートを満載した手押車を押して普通の歩行速度より稍速い速度で打設工事場に向い、橋の中央を進行し来つた、而して正に渡辺の車とすれ違わんとした刹那田代の車の心棒の左側先端が渡辺の車の心棒の先端に衝突し、田代の車の重量と速度に依り渡辺の空車は、はねかえつた、ハンドルを握つて居つた渡辺は其の衝激の為足を踏みはずし墜落し、頭上に空車が落ちかかり、致命傷を受けたものと認められる。其れ以上詳細にする資料はない。

尚右事故発生に直接一部の原因を与えたか否かは俄に断じ得ないが、渡辺はその前夜と前々夜友人と共に大酒して居つたことは田代の供述により窺われる。

本件公訴の事故が発生した工事の現状、作業の状況、事故発生の模様は叙上の通りである。

一、そこで以上の事実は労働基準法第四二条、労働安全衛生規則第一〇三条第二号違反、刑法業務上過失致死の罪に該るや否やにつき検討するに、

労働安全衛生規則第一〇三条は「架設通路は丈夫な構造とし、且墜落の危険がある個所には高さ七十五センチメートル以上の丈夫な手すりを設けること」を要求して居る。然らば其の注意は如何、千種万態の工事の現況につき、一々墜落の危険の有無を明規することは、不可能であること勿論であるから、要は当該工事・作業の状況に応じ、架設通路の構造等に鑑み、作業に従事する労務者が作業遂行の過程に於て架設通路より墜落の危険―従つて生命、身体に損傷を蒙る危険―の有無を、指揮監督の責任ある者の業務上必要なる注意による判断に依らしめ、其の危険ある場合は之を防止するに足る設備を設け、以つて此の危険より作業に従事する者を保護すべし、と謂うに在るものと解して可なるべし。

従つて、法文には「丈夫な手すり」とあるも何も「手すり」其のものに限ることなく、近代工業の発達に伴い、之に適応する墜落の危険を防止するに足る設備あれば、右の法意を充足するものと謂つてよい。即危険防止は、当該工事の状態に即し適切な設備あれば足り、敢て「手すり」に依るの要はないと謂うべく。換言せば、墜落防止の設備あれば其の危険はないと謂うことになる。

若し然らずして、今仮りに法条の通り架設通路には墜落の危険ある箇所には「必ず丈夫な手すり」を設置しなければならないとせんか、本件の如き極めて簡単な一時的の仮橋にも可成りの速度を以つて進行する重量二一五瓩もある鉄製の手押車が衝突するもなお墜落を防止するに足る「手すり」を設備せねばならないとすれば、其の資材・費用・労力の点に於て、橋そのものよりも数倍或は其れ以上之を要すべく、工事全体より看てまことに這は愚かなること説明を俟たない。依つて之を本件の作業架設通路について観るに、叙上に説明した如く、被告人が本件工事を施行するに当り其の業務上架設した仮橋(通路)は其の使用せる材料、強度、幅員、運搬車の待ち合せの為の設備の点に於て、作業の状態、当該労務者に対する選任、作業上の指揮・命令と相俟つて、正常なる作業遂行の過程に於ては、作業労務者が橋上より墜落の危険なきものと認むるを相当と思料する。証人辻正人の労働基準監督者としての右認定に牴触する供述は前示認定を妨ぐるものでない。

亡渡辺浩が墜落受傷したのは畢竟監督者の選任せざるに拘らず無断で敢てコンクリート運搬の作業に立入り、監督者の命令を無視して待合す箇所でない処に立ち、進行し来る他の車が自己の掴んで居る車に衝突する危険を予知し、避け得られたのに呆然佇立した侭であつたに基因するものと謂うべきである。

凡そ業務上要求される注意義務と雖其の業態に応じて自ら限度あるべく、本件被告人の工事施行上労務者の指揮・監督・危険防止等に於ける業務上の注意義務も亦右に述べる如く亡渡辺浩の恣な行為に因る事故の発生に迄及ぶと為すは蓋苛酷に失すること疑を容れず。

一、以上を要約せば、公訴第一に謂うところの「丈夫な手すり」の設備は其の要なく、之を設けなかつたことは労働安全衛生規則第百三条第二号違反に該当せず、従つて公訴第二に謂うところの「丈夫な手すり」を設けなかつた業務上の注意義務の懈怠に因る刑法第二百十一条の罪は自然成立せざるものとする。

仍て、公訴事実に対しては何れも刑事訴訟法第三百三十六条に則り無罪の言渡を為すべきものとする。

(裁判官 越尾鎮男)

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